- 南アルプス市はこんなまち
-
南アルプス市は日本第二の高峰北岳(3193m)を持つ
山梨県の富士川西岸に位置する市で
人口は約7万人です。
芦安温泉郷や南アルプスの山岳観光の玄関口として
4月の桃源郷マラソン6月のさくらんぼ狩り、7月8月の桃
秋はブドウ冬にはあんぽ柿枯露柿など四季を通じ果物の収穫が楽しめます。
またスモモの生産は日本一を誇り、貴陽・李王など南アルプスで生まれた
品種もあります。
山梨に観光でお越しの際には、南アルプスにも足を運んでみてくださいね。
- 南アルプス市立白根桃源美術館
-
2007.12.11 Tuesday
南アルプス市立白根桃源美術館は
農協倉庫であった1928年建造の海鼠壁造りの土蔵を移転復元した美術館。
安藤広重、会津国政などの武者錦絵、
望月春江、のむら清六の近代絵画を収蔵・展示する。
また、隣接する信玄館には、武田信玄をめぐる女性たちの人形や、信玄ゆかりの諸資料も展示されている。
■開館時間:9:00〜17:00
■休館日:毎週月曜日・祝日の翌日
■交通機関:中央本線甲府駅から山梨交通バス西野廻り青梅鰍沢行または小笠原行で飯野上宿下車、徒歩2分
JUGEMテーマ:地域/ローカル
- 椿城跡本重寺
-
2007.11.12 Monday
椿城跡本重寺は、南アルプス市
上野地区にある。小笠原流を作った小笠原次郎長清の孫、上野六郎盛長が
ここ上野の地に城を築き、上野城といったが
附近に椿が多いところから椿城と呼ぶようになった。
その後、武田十世信武の二男信明が観応年間(南北朝時代)、大井庄を領有し武田大井氏として栄えたのだが、その六世大井上野介信達がこの城を本拠としたらしい。
この大井信達は、武田信玄の生母大井夫人の父親。
この本重寺は大井信達の法名、本習院に由来するといわれている
この本重寺の寺内に、秘密の地下壕のようなものが確認され(今もあります)
外敵から攻められたときには、この地下壕を通って外へ抜け出た
などの話が伝わっているが、どうやら寺内での修行のために使われた
遺構らしい。でも地下の秘密通路のほうがロマンを感じるのは確かだよね
JUGEMテーマ:地域/ローカル
- 武田信玄公ご母堂大井夫人の大井一族の墓
- 信玄堤の聖牛
- 片手千人斬り土屋 昌恒(つちや まさつね)の墓所
-
2007.10.14 Sunday片手千人斬り土屋 昌恒(つちや まさつね)の墓所
土屋昌恒(幼名、惣蔵なので土屋惣蔵とも)の墓は
南アルプス市徳永の道路沿いにぽつんとある。
勝頼に従い主に東海道方面・関東方面の戦いの多くに参加した土屋昌恒は、衰退した武田氏から離反する家臣が多い中で、武田氏に最後まで忠実だった。
1582年、織田信長の武田攻めで武田氏の一門や家臣団の多くが離反していく中で、昌恒は最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦したが、兵の多寡は知れており、最後は討ち死にした。この戦いの際、峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い続けたことから、後に『片手千人斬り』の異名をとった。最後まで勝頼に付き従い、主君を守り抜いた姿は、武田家最後の忠臣として後世に話り継がれている。なお、土屋昌恒の生家の金丸家は、2代伊賀守光信が現在長盛院がある崖上の地に館を築き、代々徳永を中心とした地域を治めた。土屋昌恒の墓所はこの長盛院の崖下にある
- 法善寺の武田信玄像
-
2007.10.14 Sunday
法善寺の武田信玄像は、ほとんど知られていない木像なんだけれども
このお寺は、武田には結構ゆかりもあるのだ
もともとこの法善寺は、鎌倉時代に、源頼朝に従った加賀美遠光の住まいだった場所に
立てられたお寺であり、武田氏の庇護もあって大変栄えたお寺でもある。
このお寺には、信玄の詠んだ和歌や、戦勝祈願文なども残されていて
意外と信玄マニアには穴場的なお寺ではなかろうか
まあどちらかというと甲斐源氏の舞台としての性格が強いお寺だし、
加賀美遠光の次男の小笠原長清は、礼法小笠原流の開祖だったり
三男の南部光行は南部氏の祖となったりと
歴史マニアにはたまらないスポットでもある。
- 将棋頭(白根将棋頭)武田信玄の信玄堤遺跡
-
2007.03.21 Wednesday将棋頭(白根将棋頭)は武田信玄の行った有名な治水事業である信玄堤の遺跡の一つです。
普通信玄堤というと、富士川と御勅使川の合流地点に設けられた、
現信玄橋のたもとに作られた堤防をさすことが多いのですが、ここも広い意味で信玄堤の重要な一要素になります。
この将棋頭、堤防の形が将棋の駒の頭の形をしているのでこのような名前がつけられたのですが、この堤防には大きな目的があります。
それは、南アルプスの芦安地区より流れでる御勅使川(みだいがわ)の流れを2つに分けて
川の流れの本流を北東側に向けようというものです。
なぜ川の流れを2つに分けようとしたかというと、武田信玄の時代の御勅使川の流れは
今の御勅使川よりも南側を流れ、ちょうど県道20号線から、信玄橋を通るルートを流れていたんです。
このルートで大雨が降ると、地図でみるとわかると思いますが、
南下してくる富士川の水流の流れを東方向に押す力となって働き、
非常に洪水を引き起こしやすくなるのです。
そこで、武田信玄さんは、この将棋頭の上流部分の南側に堤防を築き
御勅使川が南側に氾濫しないように、流れをできるだけ北東側に流れるようにしたんだけれど
これが石積出しと呼ばれる堤防遺跡になります。
そして、この将棋頭という堤防で、御勅使川の本流を北側に流す事にしたわけです。
今までの御勅使川は支流にして、大水が出たときには、支流に分岐させる事で、水量の調節機能も持たせようとしたわけですね。
こうすることで、旧御勅使川(前御勅使川と呼びます)の合流地点より北側にある大きな崖(通称高岩)にぶつける事で、流れのエネルギーを反発させ、跳ね返って西側に向ったエネルギーは、前御勅使川の流れとぶつけて相殺させてしまおうという、
水をもって水を制す甲州流水防術を編み出ししました。
ちなみにこの考え方は武田信玄独自のアイデアというより
- 石積出し、武田信玄の信玄堤はここから始まる
-
2007.03.21 Wednesday石積出しは、武田信玄が行った堤防工事の中で一番有名な信玄堤の工事の出発点にあたる堤防工事の遺跡です。
知らずにみればただ石が積んであるだけの堤防ですが、
この石積出し(いしつみだし)には、大きな役目があります。
そもそも武田信玄が信玄堤を築かねばならなかったわけは、
甲斐の国でお米が取れる平野部は、基本的に甲府盆地の中心部がもっとも広い場所なのに、ひとたび大雨が来ると簡単にその肥沃な平野部に川の水が押し寄せる為でした。
特に日本有数の急流である富士川は、
南アルプス市の芦安地区から流れる御勅使川(みだいがわ)
と合流するあたりから、隔てるものがない平野部になるため、それこそ自由気ままに暴れる川として、当時の領民を苦しめていました。
そこで武田信玄は、この富士川と御勅使川との合流点付近に堤防を築き、甲府盆地に川の水が流れ込むのを防いだわけですが、ただ堤防を築くだけでは、その堤防が決壊すれば、それこそ労力を費やした以上の大災害となります。
武田信玄はこの堤防を決壊させないために様々な仕掛けを凝らしました。
その最初がここの石積出しなんです。
その秘密は
- 古長禅寺。大井夫人の墓所
-
2007.03.19 Monday古長禅寺は大井夫人のお墓があるお寺です。
南アルプス市の南部甲西地区にあるんですけど
ここは武田信玄のお母さん「大井夫人」のお墓があります。
なんで大井夫人かというと
大井夫人は、武田信虎の時代にこの南アルプス市の地域一帯を治めていた豪族の
大井信達の長女なんですね。
で、大井信達は信虎と戦って破れ、大井氏と武田氏和平交渉の際、
武田信虎と戦利品として結婚したといういきさつがあります。
そいでもって大井夫人は武田晴信(信玄)のおかあさんとして、
晴信の教育に身をささげ、
晴信は色々な知識を身につける事で戦国時代きっての政治家になるわけですが、
晴信は子供の頃は甲府の躑躅ヶ崎館からこちらの古長禅寺まで通って勉強しに来ていたそうです。
つまり、武田信玄の軍略・素養の素を作ったのがこのお寺なんですね。
いうなれば武田信玄の学問所ですよ。
このお寺は禅宗ですから夢窓国師にゆかりも深く
お寺の南側には夢窓国師が植えたとされる
国指定天然記念物のビャクシンがあり、さらに国師作庭の心字の池もあります。
このお寺で若き晴信(信玄)の先生だった方が岐秀元伯禅師です。
武田信玄の信玄は、晴信が出家してからの名前で法名といいますが
この出家も岐秀元伯禅師のもとに行っています。信玄にとって非常に重要な
お師匠さんだったんですね。
で古長禅寺が何故「古」がつくのかというと、
このお寺はもともと長禅寺だったんですが、
晴信さんが甲府にお寺ごと引っ越しを命じて、
岐秀元伯禅師も招きよせたんですね
やはりお師匠さんは近くにおいておきたかったんでしょう。
で、本家のこちらには「古」が付いて古長禅寺になったんですね。